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ドキュメント池田征寛のTJAR2020 <後編>

2021.10.18

「ドキュメント池田征寛のTJAR2020 <前編>」はこちら

5年間、池田さんが情熱を注いできたトランスジャパンアルプスレースへの道。8日間に及ぶはずだった夢のような時間は、わずか1日半で終わりを告げた。

立山を後にして、最初の夜をどこで仮眠するかによって、選手達の差は開き始めていた。全行程415kmのうち上高地までは全体の25%にも満たない。戦略的に温存する選択肢も十分にある。けれど今年はそうはいかなかった。北アルプスを踏破したのは、1人ぶっちぎりで先行していた土井選手だけだ。土井選手は上高地で、他の選手は山の奥地で、大会が終了した。

翌日からの荒天予報のなかでの北アルプス区間の戦略

大会前、池田さんは「7日以内で完走するスケジュールで行けたら理想」と語っていた。そのスケジュール通りならば、薬師峠キャンプ場に初日の21:30頃に着く計画だった。

「スゴ乗越に着いたのは20:45。遅れはあったものの寝ずに歩けるくらい体調はバッチリでした。でもまだ1日目、明日も明後日もある。薬師までのアップダウンと深夜の到着を考えると、今寝る方が良いと判断しました」

翌日は荒天予報だった。素人考えならば、天気が荒れる前に行けるところまで行ってしまおうと思う人も多いのではないだろうか。実際、先行していた数名はできるだけ早く槍ヶ岳を超えるべくハイスピードで北アルプスを抜けようとしていた。

「五色ヶ原で翌日の天気予報を確認したんです。確かに翌日は風が強い予報だった。一方で、台風9号が消滅しそうだという情報もありました。一時中断になる可能性は覚悟していましたが、さすがに中止はないだろうと思っていたんです」

2014年大会では、初日から台風が直撃し剱岳が迂回となった。暴風雨のなかリタイアが相次ぎ、一部の選手は小屋に緊急避難したが、その後再開され30人中15人が完走した。

「槍ヶ岳へ登る西鎌尾根は、稜線に出たり入ったりするため、風が吹きつける部分に注意すれば掴みながら進める区間。いま無茶をすると完走できないという気持ちもありました」

3時間の仮眠を経て、薬師岳を超える。雨はほとんど降っておらず、頂上付近では爆風に足を取られそうになることもあったが、想定の範囲内だった。夜が明けて、太郎平に着くと、選手数名がいたが登山客は一人もいなかった。上高地には遅くとも22:00には着けるだろう。上高地では休まず、ロードを下って沢渡の足湯に入ろうと楽しみにしていた。

「今日の目標は?」
「上高地だね!」

先行きは明るいと信じた矢先、青空の下で知る突然の報せ

朝6時半過ぎ、仲間とそんなやり取りをして、太郎平を出た。黒部五郎小舎までの11kmは、電波が届きにくい。選手達は毎日、正午以降に大会事務局からの連絡事項を確認するという約束事があった。池田さんは、自分で写真を撮るわけでもなくスマートフォンは仕舞い込んでいた。稜線の先には5人くらいの姿が見え隠れしていて、得意な北アルプスエリアを1人意気揚々とコースタイム50%ほどで歩いていた。

「黒部五郎までの道中、近くにいた撮影班の田中正人さんから一度、『連絡が来ているみたいですよ』と言われたんです。でも電波が通じなかったため、『黒部五郎の肩まで行けば電波が通じるからそこで見ます』と返事をしました。風は強かったけど晴れ間も見えていて、なんだ台風は収まって良くなってきたんだと思っていました」

午前10時頃、黒部五郎の肩。スマートフォンを取り出して、中止通達を見る。 まさかの出来事だった。

「中止の文字を見た瞬間、腰が抜けて涙が溢れました。思わず、こんなに晴れているじゃないですか! と叫びました。槍ヶ岳の穂先のあたりに雲はかかっていたものの、これからの道筋ははっきりと見えていたんです」

そばにいた正人さんは後にInstagramにこう綴っていた。

池田選手が泣き崩れた後に、日が出てカールに絶景が広がった。
なんて自然は残酷なのか!

ようやく立ち上がるものの、トレッキングポールを持つ手に力が入らない。いままでの努力も時間も、すべてが無駄になった気がして、力が抜けていく。転倒を危ぶみ、ヘルメットを被った。見渡す限りの景色が美しかった。

中止の通達を早めに知った後方の選手は太郎平から折立登山口に下山したが、林道崩壊や通行止めにより、帰宅したのは2日後だったという。池田さんよりも先に黒部五郎小舎に着いていた選手は電波の通じないなかスタッフから中止を知らされ、自分の目で確かめたいとすでに出発していた。

19:30新穂高。レースが中止となってしまったその後は、三俣蓮華岳、双六岳を経てスタッフと共に下山した。そこには、泣き腫らし目を赤くした仲間達がいた。

「スタッフの方々が労わってくれたものの、みんな無言でした。体力はたっぷり残っているはずなのに脱力感に襲われて言葉も出ない。なにか話し出そうものならまた泣いてしまう、そんな感じでした」

挑戦せずに終わった、挑戦

帰った日から数日間、富山県や長野県は豪雨が続き、あちこちが通行止めになっていた。どちらにせよ中止になっていたのかもしれない。それでも池田さんの気持ちは癒えなかった。

「大会に対しての不満はなく、開催してくれたことに感謝しています。強烈な体験をした30人の仲間ができたのもかけがえないこと。でもショックは大きいですね。大会後、平日は仕事へ行き、片付けもせずまま日々が過ぎ、山へ行く気にもなりませんでした」

TJARは2年に1度の大会だが、昨年大会が今年に延期されたことで、来年は通常通り開催される。つまり、次は1年後。

「これまで全ての週末をキツいことに費やしてきました。来年も挑戦したいという気持ちはありますが、またあの日々をやるのかと思うと……。選考会はこれまでの2回の経験を活かせるので、通過できる可能性は高いと思います。でも、どれだけ想いが強くても、どれだけ経験を積んでも、どれだけ技術があっても抽選がある。最後は運なんです。不確定要素に対して、情熱を注いで努力することの辛さ。強く気持ちを持ちたいけれど、まだ気持ちの整理は付いていないですね」

池田さんの心に靄がかかっているのにはもうひとつ理由がある。それは、大会が中止になった時、これっぽっちも疲れていなかったこと。

「今回、2回目の人と初めての人がいました。2回目の人は、前回達成できなかったこと、思い通りに行かなかったことがあって、過去の自分を超えようと参加しています。一方で、初めての人は“とにかく完走したい”と思う人が多い。完走すれば次回の選考会は免除される。運頼みから解放されて、2回目にさらなる挑戦をしたい! と思う人もいます。

挑戦か完走か、その違いは明らかでした。自分に挑み、“レースをしていた人”は初参加か2回目かを問わず、初日から突っ込んでいた。僕はとにかく完走するために、前半はできるだけ体力100%を保ちたいと思って、結果その通りほぼノーダメージで終わりました。5年間思い続けて、3年間もがむしゃらに頑張ってきたのに、勝負しないまま終わってしまったんです」

全力で挑み、限界を超え、やり尽くした人はTJARを卒業していくという。そうなるためには、始めから勝負するべきだったのではないか。わずかな選手枠に多くの人が挑戦する機会があってほしいからこそ、1回で完走したいと願う池田さんにとって、今回の経験は次への大きな課題を得ることになった。

大会は終わってしまったが、池田さんの夢はまだ終わっていない。

「夢や目標があることは幸せです。ないよりずっといい。でも夢を抱くだけで終わらず、実現させるには自分で未来をつくっていくしかない。自分の未来は、つくるしかない。“Let it be”なすがままではなく、夢を自分で掴もうとアクションを起こし続けることで、何かが起きた時に達成できなくても納得がいくと思うんです」

池田さんが大好きだという糸井重里さんの「夢に手足を。」という詩がある。

“夢には翼しかついていない。
足をつけて、
歩き出させよう。
手をつけて、
なにかをこしらえたり、
つなぎあったりさせよう。
やがて、目が見開き、
耳が音を聞きはじめ、
口は話したり歌ったりしはじめる。

夢においしいものを食べさせよう。
いろんなものを見せたり、
たくさんのことばや歌を聞かせよう。
そして、森を駆けたり、
海を泳いだりもさせてやろう。

夢は、ぼくたちの姿に似てくるだろう。
そして、ぼくらは、夢に似ていく。

夢に手足を。
そして、手足に夢を。”

「TJARへの挑戦を通じて、夢をもつこと、夢を掴みにいくこと、挑戦する過程の素晴らしさが少しでも会社の仲間や周りの人達に伝わり、環境や意識が変わるきっかけになればと思っています。いまはまだ気持ちを切り替えられないものの、少しずつ外へ行く回数を増やしながら、次の夢へ向けて動いていこうと思います」

2022年夏はきっと遠くない。池田さんはまた夢と共に歩みはじめる。

世界で最も過酷な山岳レース、TJARに魅せられた46歳の挑戦 池田征寛
ドキュメント池田征寛のTJAR2020 <前編>

(写真 辻啓 / 文 中島英摩)

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