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「夢中になれるモノを見つけた僕たちは幸運だった」
46歳アスリート、二大巨頭対談 鏑木毅 × 平山ユージ

2015.03.31

方や日本有数のプロ・フリークライマー、方や日本のトレイルランニング界の第一人者。同い年のフリークライマー、平山ユージとトレイルランナー、鏑木毅が久々の対面を果たした。それぞれのシーンを背負って立ち「やりたいことがたくさんあって、まだまだ成仏できない」と笑い合う46歳、ザ・ノース・フェイスのアスリートによるスペシャルトークをお届けする。

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——まずはお二人の出会いと、そのときのお互いへの印象からお聞かせください。

鏑木 初めて平山さんにお会いしたのは、僕がザ・ノース・フェイスのアスリートになって出かけた、初めての展示会の時。2006年のことだったと思うので、もう9年前になりますね。

平山 その展示会のことは覚えてないけれど、鏑木さんについてはカナダのバンフで開かれたアスリート・ミーティングが強烈に印象に残っていますね。時差ぼけでふらふらになりながら会場に行ったら、鏑木さんはどこか外を走ってきて、そのまま会場に来たんだよね(笑)。ランナーはものすごくポジティブだなって、前夜遅くまで飲んでしまった自分を省みる意味でも印象深かったです。

鏑木 そうそう、そのときはセバスチャン(・セニョー)が走りたいというからつきあったんですが、マイナス十何度という極寒の世界で、肺がおかしくなりそうになった記憶があります(笑)。

平山 ランニングはクライミングと違って、どこでもできるのがいいですよね。

鏑木 走る行為自体が日常生活に結びついている感じですね。

平山 そしてランナーは、いつも何かしら食べているイメージ(笑)。

鏑木 実は、お会いする前から平山さんのことは存知あげていました。というのも、僕のラン仲間がクライミングをやっていて、「平山ユージがこういった」「平山ユージはこんなことをしている」とか、ことあるごとに平山さんを引き合いに出すんですよ。彼に半ば洗脳されて、ギラギラしてちょっととっつきにくくて、いつも裸でアプローチを走っている(笑)という勝手な「平山ユージ」像を作っていました。実際はソフトで紳士的な物腰で、そのギャップに驚いたんですが。

平山 いやいや、走っているのは無意識で、単に早く登りたいだけ(笑)。

鏑木 でもその紳士的な物腰の裏には負けず嫌いな一面が隠されていて、内面には秘めたものや葛藤を抱えているんじゃないかって。僕もそういうタイプなので共感を覚えていました。勝手な想像ですけれどね。

「ある日訪れるブレイクスルー」(平山)

平山 実を言うと僕も昔、マラソン選手になりたかったんです。小学三年生のときに(ジュマ・)イカンガーと瀬古(利彦)の闘い(’83年福岡国際マラソン)に影響されて、中距離を始めたんですよ。僕にそっちの才能があったら、もっと早くに鏑木さんと会えていたのかも。

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鏑木 やめちゃったんですか?

平山 芽が出なくて、中学二年の時に見切りをつけました。中学生ともなると、才能のあるヤツってとっくに花開いているんですよね、全国大会に出たりだとか。

鏑木 僕は中学、高校といわゆる陸上のエリートコースを歩んできたんですが、大学で打ちのめされたんです。昔から「箱根駅伝に出て、あの舞台で活躍するんだ!」と思ってきたのに、出場することさえ適わなかった。長年、頭のなかで描いてきたロードランナーの明るい未来が、がらがらと音をたてて崩れちゃって。半端ない挫折感を味わって結局、3年生で部活をやめてしまいました。その後、山を走るという新しい世界に出合って「これだ!」って思ったのも、そういう挫折があったからかも。ロードランナーとしてなし得なかったものを、ここで実現させるんだって。で、「二本足で動く生き物にはぜったいに負けない」という気概でやってきました。

平山 僕も若いときは親しいクライマーもいなかったし、「クライミングはかくあるべし」みたいに譲れないものがたくさんあって。だからピリピリしていたのかもしれない。

鏑木 そうそう、でも自然を相手にしたスポーツを長年やっていると、ここでピリピリして肩肘張っていてもしょうがないなって気にさせられるんですよね。そうやって自然に身を委ねられるようになったら、もう一段階強くなれた気がする。

平山 ブレイクスルーってありますよね。一つ大きな壁があってその壁の前で停滞しているんだけれど、ある日突然、「こういうことだったんだ」って腑に落ちることがあって、すると一気に勝機が訪れる。

鏑木 そのひらめきをうまいことつかみ取れるかどうかですよね。平山さんの競技人生にも挫折ってあるんですか?

平山 19歳のとき、いきなり最難関ルートを登ってしまって、それまではただただ憧れだけでがむしゃらにやってこられたのに、突然目標を見失って途方に暮れてしまったんです。そのときはどうしようもなくなって、とりあえず学校に戻ったんですよね。2カ月間、机に向かって、気がついたらいつもトレーニングしている場所に向かっていました。結局、興味を持てるのはクライミングだけだった。そんなことがあって学校を辞め、ヨーロッパへ渡りました。

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「自分が夢中になれるモノを見つけた僕たちは幸運」(鏑木)

鏑木 トレランにしろクライミングにしろ、自分がもっとも輝けるモノに出合えたという意味で、僕たちは幸運ですよね。結局はそれも、その幸運をつかめるかどうか、なのかな。僕たちは運良くそれを掴めて、さらにそこから目指すモノが見えたからこそ、生きているエネルギーをすべて一点にぶつけられる。一途に、嘘偽りなく、その道のバカになれる。

平山 17歳でアメリカに渡ったとき、「スフィンクス・クラック」という憧れのルートを見に行ったことがあるんですよ。その9年後、ワールドカップで優勝して、再び「スフィンクス・クラック」の前に立ったんだけれど、9年前とは景色が全然違うんですよね。何が違うって、そこに立っている自分が違うんです。ヨーロッパのクライミングを覚えたいまの自分ならあのルートだって登れるだろうと考えて、実際にオンサイトしたとき、日々進化しているからこそ得られる喜び、思い描いたことが現実になるという幸せを、クライミングを通じて得ることができたんです。

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鏑木 明らかに自分よりも能力のある選手に自分が勝てたのは、そういう幸せのために自分がバカになりきれて、120%、130%のエネルギーを注ぎ込めるからなのかもしれません。

「大会に出場することで、クライマー同士の世界が広がればいい」(平山)

——それでは、お二人それぞれがライフワークとして手がけていらっしゃるTHE NORTH FACE CUPとUTMF(ウルトラ・トレイル・マウント・フジ)について教えてください。

平山 もともとは18年前、僕が通っていたジム内で開催した小さなコンペがきっかけでした。ひとつひとつのルートが短い分、ダイナミックな動きが求められるボルダリングには未来があると思っていたけれど、当時はまだ世界レベルのボルダリング競技会は少なかったんです。まあそんな状況だったので、ワールドカップで優勝した年に、ジムに40人ほどを集めて小さなコンペを開いてみました。翌年も開催してみたら、70名もの参加者が集まり、そのジムのキャパを超えたのでザ・ノースフェイスに大会のサポートをお願いしたんです。

——そのTHE NORTH FACE CUPも、いまや国内最大規模の大会に成長しました。

平山 THE NORTH FACE CUPもそうですが、各地で開催しているクライミングのコンペを通じて、年代も人種も異なるクライマー同士がコミュニケーションをとって、互いにシーンを作っていくことが大会の意義だと思っています。選手には大会に参加することで、技を磨くだけでなくそうした意義を体感してほしい。だから各国のコンペと連携をとって優勝者同士の行き来を図るなど、各地のクライマーの相互理解を進められるような大会を目指していきたいと思っています。

鏑木 僕は2007年にUTMB(ウルトラ・トレイル・デュ・モンブラン)に参加して初めて160kmという距離を走ったんですがそのとき、言葉にし難い圧倒的な感覚を味わったんです。道中はすごくつらくて苦しいんですが、自分と向き合いながら「旅をする」感じ、というんでしょうか、今までの「走る」とは全然違うフィーリング。それまでは「走ること=競争」だったけれど、グランド・ジョラスにモンブラン……アルプスの山々に、競争なんてちっぽけなものを超越した楽しみを教えられた。そんな、自分と真摯に向き合える「山の旅」を日本に持ち帰って、世界に通用する100マイルのレースを開催しよう!そういう思いが<UTMF>の原動力になっています。加えて、日本ならではの醍醐味を感じてもらえる「旅」を、トレイルランニングという競技を通じて世界のいろいろな人たちと共有したい。そして、こうしたレースが、日本の選手にとって海の向こう側を覗き見るきっかけの一つになればいい。そんな風に思っています。

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「順位やタイムを超えて、走ることって自由なもの」(鏑木)

——鏑木さんも平山さんも、子ども達に向けた取り組みも積極的に行っていらっしゃいますね。

平山 THE NORTH FACE CUPでいえば、子ども達がクライミングに興味を抱くきっかけになればいいと思って、当初はかわいい課題をつくって順位もつけずにやっていました。そのうち、キッズだけでも参加者が50人を超えるようになり、「競技として順位をつけてほしい」という要望が出るようになったので現在のような形に整備して。いまや子どもだけで300〜400人が参加しており、ここから巣立った選手には女子で世界チャンピオンになった野口啓代選手もいます。彼女は小学5年生でボルダリングを始めてすぐにTHE NORTH FACE CUPに出てくれるようになって。そういう存在を目の当たりにして、子ども達が「世界一になりたい」という夢を抱くようになったのは意義深いことですね。

鏑木 それに比べるとトレイルランニングは競技色が薄いというか、まずはフィールドに興味を持ってもらえるような企画を親子に向けて行っています。自然での楽しみ方、遊び方を知ってもらえたら、その後の人生の選択肢はより広がると思うから。

平山 僕が主宰するベースキャンプでも「キッズアカデミー」を開催しているんですが、そこではクライマーとして独り立ちしてもらうために、子ども達を外岩に連れて行きます。やっぱり自然の岩と遊ぶ面白さを知ってほしいから。ザ・ノース・フェイスでも親子クライミングを企画してもらったんですが、これは今後も続けていきたいですね。親子のコミュニケーションにも役立っているみたいだし。「キッズアカデミー」を始めた当初は大会に出ることをゴールにしていたのだけれど、フリークライマーに必要なのはアウトドア・フィールドだと思うんですよ。

鏑木 そうそう、空前のブームを受けてランニングの世界でも子供向けのレースが増えてきているんですが、ロードのランニングではタイムや順位を競うベクトルしかないんです。でも走ることってもっと自由な行為で、トレイルを走っていれば自分なりの楽しみを見つけられると思うんです。タイムや競うことを超えた、走ることの醍醐味を見つけてもらえたら、大人になる過程で走ることがライフワークのひとつになり得るんじゃないかって。

平山 昔は早く下山したいからってよくアプローチ・トレイルを走っていたんですが、いま考えるとあれもトレランだったんですかね。

鏑木 たしかに僕も山の中で疲労困憊したいから走ってみただけ。言ってみれば、フリークライマーもトレイルランナーもさしたる違いはないですよ。だから僕たち、特別視されると心外なんですね(笑)。

平山 フリークライマーもトレイルランナーも、46歳じゃあまだまだ成仏できないってことです(笑)。

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  2. 鏑木毅(かぶらぎつよし)
    トレイルランナー。1968年10月15日生まれ、群馬県出身。早稲田大学在学中に箱根駅伝出場を目指すも怪我の影響などで果たせず、その後、群馬県庁に勤務。28歳の時に地元群馬で開催されたレースに出場したのがきっかけでトレイルランニングを始め、以後数々のレースで優勝。日本最強、唯一の3冠トレイルランナーで、国内外のレースに出場するだけでなく、UTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)などのレースプロデューサーとしての顔も持つ。著書『アルプスを越えろ! 激走100マイル―― 世界一過酷なトレイルラン』(新潮社)。
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  2. 平山ユージ(ひらやまゆうじ)
    プロ・フリークライマー。1969年2月23日生まれ、東京都出身。10代で渡仏、欧州でトップクライマーとして20年以上活躍。1998年に日本人初のワールドカップ総合優勝、2000年には世界ランク1位に輝く。なお、コンペティションでの数々の優勝もさることながら1997年、ヨセミテ渓谷にある1,100メートルのサラテウォールをオンサイトで完登、2003年のエルニーニョでのオンサイトトライなどが有名。世界一美しいと評されるクライミングスタイルで「世界のヒラヤマ」として知られている。2010年に、長年の夢でもあったクライミングジム「Climb Park Base Camp」を設立。現在も、世界を舞台に広く活躍中。

(写真 飯坂大 / 文 倉石綾子 / 協力 Rock & Wall

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